普通の外にいくつかの著名な品質を持っている、と畏敬の念を起こさせるあるいかなるビーイングは、カミと呼ばれています。


主祭神
天鈿女命 Ameno-uzume-Mikoto
境内社
幸神社- Sainokami Yashiro
稲荷社 Inari-Sha
書聖天満宮 Shosei Tenman-Gu
例祭:
御利益
夫婦円満, Matrimonial Happiness
良縁祈願 Good marriage
本翻訳は、京都の稀有なる文化に深い造詣を有するバイリンガルの識者・KyotoKによって英語原文より精緻に訳出されました. https://note.com/coco_kyoto
京都駅近くのビルの谷間にひっそりと佇むこの小さな神社の歴史自体はやや平凡ですが、その周辺に伝わる物語は決してそうではありません。おそらく最初に注目すべきはその名前でしょう。「道祖(どうそ)」は文字通り「道の祖先」を意味し、この語は「道祖神(どうそしん)」という形で用いられることが多く、「道祖神社」という表現は比較的珍しいものです。
道祖神は、地域の境界を守護する土地の神として信仰されており、農村の村境や都市の辻などに石像として祀られていることがよくあります。この神社にあるものも同様で、しばしば夫婦の姿で表されます。男性はおそらく猿田彦(さるたひこ) でしょう。猿田彦は、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が地上に降臨しようとした際に、高天原の八衢(やちまた)に現れて道を塞ぎ、結果として瓊瓊杵尊の降臨を妨げた神です。このことから、地域の境界を守護する神として崇められています。女性はおそらく天宇受売命(あめのうずめのみこと)で、猿田彦の行動を探るために天から派遣された神です。のちに二柱は夫婦となったと伝えられています。
境内に祀られている三つの祠のうち、幸神社(さいのかみやしろ)と正成天満宮(しょうせいてんまんぐう)の二つは特に注目に値します。最初の幸神社について興味深いのは、その名前の漢字の読み方の違いにあります。
前述のとおり、猿田彦は八衢で瓊瓊杵尊の降臨を妨げました。日本語の「遮る(さえぎる)」は、人の進路を妨げるという意味があります。この「さえぎる(遮る)」の「さえぎ」が、どのようにか「幸(さち)」と音が似ているとして置き換えられ、幸(さち・さい)は「幸福」を意味します。この結果、猿田彦は「幸の神(さいのかみ)」、つまり幸福や夫婦円満をもたらす神とされるようになりました。
正成天満宮の隣には、この神社がかつて「洛陽二十五社」の一つ、つまり京都にある菅原道真公と特にゆかりの深い25の天満宮の一つであったことを記した石碑があります。しかし現在では、その一覧には含まれていません。
そして最後に、この神社の由緒についてご紹介します。創建の時期は定かではありませんが、伝承によれば、寛平元年(899年)、第57代宇多天皇が御所であった亭子院を離宮とし、その守護のために社殿を造営されたといいます。これが現在の道祖神社の起源とされています。その後、亭子院が廃されるに伴い、神社も現在の地へと遷座されたとも伝えられています。また同じ頃、松原道祖神も同所に移されたといわれています。
その後、幾度となく兵火に遭い、社殿は焼失と再建を繰り返してきました。
やがて数世紀を経て、天正19年(1591年)、豊臣秀吉による京都改造の一環として、神社は下京区不動堂町に移されました。
さらに240年後の天保2年(1831年)に刊行された地図には、現在地よりやや東に社地が記されています。
明治29年(1896年)の書物によると、当時神社が鎮座していた土地が鉄道会社に収用されたため、明治6年(1873年)に現在の場所へ西遷されたと伝えられています。
画像をクリックすると拡大します













